三亜

       
紅沙の「慰安所」近くを通っていた楡林―三亜間鉄道跡

 日本海軍三亜航空隊に所属していた旧日本兵5人が、「三亜飛行場の門を出て海に向かって左に2百メートルほど 行ったところに‘慰安所’があった、士官は日本人女性が収容されている‘海南荘’に、兵士は朝鮮人女性が収容されて いる‘三亜荘’にいった。ほかに、朝鮮人女性が収容されている‘つばさ荘’があった」と証言している。    
紅沙の「慰安所」跡
蘇殷貞さん(1930年生)
蘇殷貞さん
 「紅沙の‘慰安所’近くに住んでいた。建物は三つあった。一般兵士は土日、将校は金曜日に来た。  一般人はそこに入ることもできなかった。朝鮮人の女性は、白い服を着ていた。長いスカート。  (チマ・チョゴリの絵を書いて見てもらうと)これだ。こんな服を着ていた。朝鮮人の女性たちは髪が長く、編んでいた。  日本人は髪が短い。‘アリラン’という歌を聞いたことがある」。
「慰安所」の瓦
 廬満妹さん(1926年生)は、家計を助けるために、海南島の食堂で働くという求人に応じて、 台湾から連れていかれ、「慰安所」に入れられた。そこは、三亜の紅沙にあった「慰安所」で、 田独鉱山が近くにあり、日本軍人だけでなく、石原産業関係者も来たという。
  1999年7月、廬満妹さんたち台湾の女性9人が、日本国に謝罪と賠償を要求して、提訴した。2002年10月  に東京地裁は、被害事実を認定しないで「国家無答責」とし、2004年2月に東京高裁は実質審理をしないで  地裁同様の不当判決をだし、最高裁も2005年2月に上告を棄却した。




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